Novel
王様と王様──chessに魅せられて──
夏風馨
「キングが寝返ったのよ!」
入って来るなりナディアが怒鳴るように言った。
「寝返った」
思わず声の重なったジャン、サンソン、ハンソンを見てナディアが白い壁をドンと叩いた。
「そうよ、裏切ったのよ!」
「どう言う事なの、ナディア?」
剣幕におずおずとしながらも、ジャンが尋ねた。
「それは──」
「聞いて聞いて聞いてぇぇぇぇっ!キングが浮気したのっ!」
ナディアの答えは、小さな訪問者によって遮られた。
「浮気?」
再び三人の声がはもった。
「そうよ、私と言う者がありながら──……」
狭い船室内で、ジャンはぐらぐらする頭を何とか押さえ込もうと必死だった。
本当にこの子は四歳なのだろうか。自分が助けた子供は実は見た目が四歳に見えるだけで、さばを読んでいるだけなんじゃないだろうか。
ジャンは肩で息をするマリーを暫し見つめていた。
「で、どう言う事なんだ、マリー?」
沈黙を破り、サンソンがマリーに問い掛けた。
「キングはマリーよりも…」
一同が息を呑んだ。キングが誰を選んだのか、と答えにドキドキとなった。
「せんちょーの方が良いのよ!」
「はっ?」
*****
「船長、定時報告です──」
言葉の途切れた副長を不審気な顔でネモが振り返った。
「どうした、副長」
「すいません、しかし」
副長は目線を下にしたまま半ば固まっていた。クルーたちもその視線を追って床を見た。
「……キング?」
エーコーが間抜けな声を上げた。その先には艦橋には不釣合いな白いライオンが伏せの体勢を取っていた。
「またか」
ネモはうんざりしたような声で呟いた。
「何がまたなのですか?」
エレクトラがその呟きに問いを返した。しかし、ネモはクルーの求めている答えを口にする事無く目を閉じた。たかだか白ライオン一匹に戸惑っているのは可笑しい。危害を加えてくる訳では無いのだ。
「定時報告はどうした、副長」
*****
「後は頼む」
いつもの如く、ネモはそう言い残してブリッジを離れた。独りになれる場所──船長室へ。
「ニャウ」
先客がいた。しかも、猫。否、白ライオンの子供が室内をうろうろしていた。侵入者はいきなり現れた部屋の主に完璧に驚いている様子でわたわたしていた。
ネモの方も流石に驚いた。一人だと思った所に他人がいたら譬えアトランティス人の王であるネモであったとしても驚くものなのだ。
「──キング。どうしてこんな所にいるのかね」
ここは入ってはいけないと、言われている筈だ。と、言いかけてネモは口を噤んだ。相手はライオンだ。少し怯えた感のある赤ちゃんライオンをネモは抱き上げた。
「にゃ、にゃにゃにゃうにゃう〜」
ネモの目線と合わさるやいなや、キングは鳴き出した。
怖いのだろうか。それはそうだ。
野生の感性を備えたキングにとって、血に塗れた私は恐ろしい存在なのだろう。
ネモは小さく吐息を漏らした。ゆっくりと自分のデスクの上にキングを降ろしてやった。
「にゃうにゃにゃにゃ、にゃふにゃうう」
それでもキングは鳴き続けた。何かを訴えるように。最初は踊っているのかと思ったが、様々なジェスチャーを交えて何か主張しているのかもしれない。ネモはキングを見つめた。
「何か私に言いたいことがあるのかね?」
「にゃう!」
元気良く前足を挙げたキングにネモは
「聞こう、話し給え」
話を聞いてやる事がここに入らないように教えるためには一番良いとネモは判断したのである。
*****
「マリーが鬼ね!」
元気いっぱいの声に弾かれるようにキングは駆け出した。
いつものかくれんぼ。いつも鬼のマリー。逃げるキング。
どうせ20分掛かれば十分なのだ。それほど複雑な所に隠れる必要は無い。キングは真っ直ぐな通路を駆けた。
「1,2,3……」
キングは通路を曲がった。小さな隙間に入り込む。
「……9,10!」
遠くでしたマリーの声に小さくにゃ、と答えた。パタパタと駆ける足音が近づいて遠ざかった。どうせ、また戻って来て発見されるのは明らかなのだから、とキングは隙間で丸くなった。
*****
「いたぁぁっ!」
マリーの声にふにゃ、と言うや否や、前足を持ち上げられていた。 その後に起こる事は想像に難く無い。
ぶんぶんぶんぶんぶん、ぽーーーーーん
「にゃああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁああぁぁぁ」
ドン、シュッ、ガッ……
キングは消えた。
「あれぇ、キングゥ?どぉこー?」
*****
「──つまり、不可抗力だったと言いたいのかね?」
「にゃふ」
聞き終えたネモはキングに問うた。興奮冷めやらぬキングを尻目にネモは心なしか疲弊していた。
「にゃあ、にゃにゃ?」
少し苦悶した様子のネモにキングが何かを取り出した。これ何、と言わんばかりに。
ネモはギョッとした。それはあのホログラム。疲弊し、隙を見せてしまったネモの大いなる失敗──こんな大切な物をキングの目に留めてしまうとは。ネモは刹那に思考が停止した。
「それは──その、フリスビーだ」
「にゃうっ、にゃふにゃう!」
どう考えてもまずい答えだったとネモが気付いた時、もう既にキングは遊んで貰えるものと喜んでいた。正に後の祭り。
「これでは遊べんのだよ、その、小さいし、重いし、フリスビーとしては、その、欠陥品なのだよ──すまん」
「にゃあ?にゃにゃにゃにゃっ!」
許してくれてない。寧ろ、飛ばなくても良いから、それで遊ぼうと言うキングが憎い。頭を抱えんばかりに唸っていたネモはつと椅子から立ち上がった。そして、棚の奥をごそごそと探り始めた。
確かある筈だ。まだ、捨ててはいない。
「キング、これで遊ばないかね?」
チェス。
この男、何を考えているのだろう。ライオン相手にチェス。
「うー…にゃうっ!!」
しかも、このライオン、ネモの誘いに乗ったらしい。
かくして奇妙なチェスの対戦が始まった。
*****
「にゃ!」
暫くして、キングが嬉しそうに手を挙げた。
「なっ……」
チェックメイト。ネモは唸った。13年前のあの日以来、確かにチェスはしていなかった。あの男の事を思い出すから。しかし、赤ちゃんライオンに負けるほど腕が落ちたと言うのか?もう一度、ネモはチェス版を見た。確かに有無を言わせぬチェックメイト。
「……キング君、もう一局やらんかね?」
「にゃう!」
*****
「──以上です。……船長?」
エレクトラの声がネモを現実に引き戻した。思わず苦悶の表情を浮かべていたらしいネモを機関長が見つめていた。この男は報告なんぞこれっぽっちも聞いておらん、とその目が言っていた。そして、それは当たっていた。
「ご苦労、その件は一切君に任せる」
ネモは言うと、また思案に沈む。自分のチェスの力は如何程だったのだろう。ガーゴイルには負けなかった筈だ。あの時だって最後までやる必要など無かったのだ。もう勝負はついてた。私が確実に勝っていた。
「船長」
顔を上げると、機関長が立っていた。いつの間にか他のクルーは席を立っていた。いるのはネモと機関長だけ。
「どうしたんじゃ、船長。しっかるしてくれんと困るぞ」
「…しっかりしているつもりだ」
何処がだ、と吐息を漏らした機関長にネモは首を傾げた。勿論、ネモはそれ程悩んでいると言う自覚が無かった。恐ろしい程に無自覚。己の感情に鈍感不器用な男だからな、と機関長は心の中で愚痴っているなどと、よもや知る筈も無い。
「ナディアの事で何かあったのか?」
「いや、そうではない」
「じゃあ、何なんじゃ」
老人の追及に、ネモはうむと静かに俯いた。この老人にだけは隠し事は無理だ、とネモには十分に分かっていた。自分が生まれた時から、王子だった時から、王になった時から父親となった時から…この男は全てを知っている。
「私はチェスが強かったと思うか?」
「…は?」
機関長の目が点になった。てっきり、ナディア絡みとと思っていた機関長には意味が咀嚼出来なかった。何故、ネモがこのような質問をするのだろう。未だ目が点の老人にネモは再び問うた。
「機関長、どう思う。強かったと思うか?」
*****
「キングったら、ネモ船長にべったりなのよ」
ナディアの言葉からは完全に船長への呪詛の念が籠められている。これでブルーウォーターが反応した日にゃあどうなる事か、と黙して語らぬノーチラス号は思ったに違いない。ブルーウォーターの本当の力をまだよく知らないジャン達でさえその雰囲気に慄いていた。
「でも、また何で?」
「知らないわ。何であんな人が良いのよっ!!」
ジャンの問いかけに対して、ばむっと白い壁を叩くとナディアが吐き捨てた。
最もネモに近い筈のナディアにも、キングがどうしてネモの許へ行きたがるのかは解らなかった。
「じゃ、じゃあ…尾行してみるとかは?」
「したわ。でも撒かれたの」
「…そうなの?」
「きっと、せんちょーにおっきなお肉を貰ってるのよ!」
マリーが口を挟んだ。
「何て汚いのかしら、これだから大人って嫌いよ!!」
まさか、チェスと言う知能ゲームに魅せられているとは思わないだろう。
*****
「キング君、もう一局やらんかね?」
これでもう8回目の科白。ネモは完璧に自信を喪失していた。もしかしたらあの時もガーゴイルが勝っていたのでは、と思うほどに。
薄暗い船長室で、大の男と、幼ライオンがチェス。
この変な対局は続いている。いつ決着が付くかはブルーウォーターにも分からない。
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