Novel

父の日──父親の条件──

夏風馨

「父の日?」
ジャンははたと設計図を書く手を止めた。振り返るとナディアが壁にもたれて、天井を仰いでいた。
「そう、父の日。貴方は祝った事あるでしょう?」
それが明後日なの、とナディアは小さく付け加えた。ジャンはナディアの暗い表情に少し気圧された。
「ん…まぁ……」
口を濁して、ジャンは俯いた。
「でも、どうしたの?急にそんな事…」

「ナディア!ジャンは何をあげたら喜ぶかなぁ?」
「いきなりどうしたの、マリー」
足元でぴょこぴょこと飛び廻る天使にナディアは屈みこんだ。
「だって、ジャンは私のお父さんでしょ!」
それは、知っている。マリーの父親役がジャン。母親役がナディア。でもそれはナディアの問いかけの答えではない。
「もう、ナディアったら鈍いわねぇ。父の日なのよ、明後日は!」

「別に。ただそんな言葉すら知らなかったから、私」
父親を知らないんだもの、とナディアは心の中で付け加えた。ジャンはその言葉を言ったのがマリーである事に気付いていた。このノーチラス号で、父の日などと言う単語を発する人間はマリーくらいなのだから。
「今となっては懐かしい言葉だよ。それに、父の日に父さんが家にいた事って少なかったからなぁ……」
ナディアはそれ以上何も言わなかった。

「何が良いかしらぁ?ねぇー、キング?」
マリーは通路をてけてけと歩きながら呟いた。
ジャンが欲しそうな物──

「──違う。これは、違うもん」
マリーは立ち止まった。キングを抱き締めると、しゃがみ込んだ。キングは苦しくてもじっと我慢していた。マリーは自分が離れたら泣いてしまうから。
「どうしたのかね?」
「……せんちょーさん」
顔を上げると、マリーの瞳にはネモ船長の姿が映った。マリーに見上げられたネモはたじろいだ。この娘の目が心なしか赤いのに気付いてしまったから。本当はマリーを無視して進む事だって出来た筈なのに、そうしなかった自分を悔いた。
「せんちょーさんは、ジャンが欲しいものって分かる?」
「ジャン君が、かい?」
どうして、急に?ネモは思わず首を傾げた。
「父の日だから」
ズサッ。ネモの心に鉛が打ち込まれるのを感じた。

父としての己を捨てると決意した人間にとって、純粋な瞳で『父の日』と言われる事ほど辛いものは無い。幼いマリーを見つめて、ネモは言葉に窮した。
「でもね、ジャンの欲しいもの、考え付かないの」
マリーは下を向いてしまった。明るい太陽に雲が掛かってしまったように感じられた。
「パパが欲しい物はね、いっぱい、いっぱい出てくるのよ、それなのに──」
出て来ないの。ネモはマリーの沈む理由を悟った。親を亡くした幼子の悲しみ。そんな言葉で簡単に言い表せるかもしれない。しかし、この娘の心は簡単じゃない。この息苦しい空間で、悲しみを押し込め、前を向いて生きようとしている。

「そうか」

ネモは膝をついて、マリーの顔を覗き込んだ。怖がられているだろうから、逃げるかもしれない。ネモの頭にそんな考えが過ぎったが、マリーは逃げなかった。幼子は船長に抱き付いた。久々に、13年振りに味わう感触が懐かしくて切ない。
「あのね、マリーのパパもママも、ムックもお空にいるのよ。ナディアのパパとママもだって言ってたの。だからね、寂しくないし、私もみんながいるから寂しくなんかないわ。でもね……」
「良い子だ。だけど、泣きたければ泣いても良いのだよ」
ネモはマリーの背中をさすってやった。こんな小さな身体に詰め込んでおけるほどの悲しさではない。しかし、マリーは首を振った。
「マリー、泣かないよ。みんなの事、大好きだもん。困らせたくないもん」
「……じゃあ、今だけ思いっきり泣きなさい。私は困らないから」
「せんちょーさん?」
マリーのしがみ付く力が強くなる。ネモはよしよし、と背中をさする手を休めない。

「どうしたんだい、マリー」
「怖い夢見たの」
「そうか、おいで」
マリーを父が抱き上げた。この世で最も信頼できる瞳で父は微笑んだ。
「……じゃあ、マリー。今だけ思いっきり泣きなさい」

「せんちょーさんってパパみたいね」
「……え」
マリーはネモの腕の中で、続けた。
「パパも同じ事をしてくれたわ」
ネモは身じろぎすら出来なかった。でも、温かい少女の心を壊さないように背をさする手を止めなかった。
「ありがとう、せんちょーさん」

「そう言えば、マリーはどうしたんだい?」
グランディスの言葉に、ナディアはハッと気付いて立ち上がった。
「え、あら。もう帰って来ても良い時間なんだけど……」
「ま、あの娘はしっかりした子供だからねぇ。心配するにはまだ時間が早いかもねぇ」
グランディスは軽く言いながら、部屋を出て行く。コック長の準備の手伝いのために。
「もう、いい加減なんだから!」
残されたナディアはベッドに腰を下ろして頬を膨らませた。

シュッ……
「グランディスさん、忘れ物でもし」
言いかけて、ナディアは固まった。目の前にいるのはネモ船長だった。でも、何より驚くべきは、ネモの状態。
「失礼するよ、ナディア君」
腕にマリーを抱く姿が、何故か似つかわしくて、ナディアの心が騒ぐ。
「──マリー君が抱きついたまま眠ってしまってね」
正直言えば、ネモにとってこんな姿はこの世界の誰にも見せたくない姿だった。ナディアには特に。事実、ナディアは驚愕の表情をしたまま思考停止しているのがネモには手に取るように分かった。
「ナディア君、聞いているのかね?」
「あ、は、はい」
ナディアは半ば呆然としつつ、眠ったマリーを受け取った。マリーの寝顔は安らかだった。それがナディアには信じられない。人間を平気で手にかける男の腕に抱かれていたとはとても思えない寝顔。マリーはネモ船長から何を感じたのだろう、とナディアはネモを見つめた。探るような瞳で見つめられたネモは何も答えなかった。そして、何事も無かったように部屋を出て行った。
「……どうして?」
ナディアがマリーの傍らで呟いた。勿論、マリーは答えない。
「ぅう〜ん……」
マリーが寝返りを打った。その時、ナディアはカサリと乾いた音に気付いた。マリーの白いエプロンのポケットに、小さな紙切れが入っている。ナディアはその折り目正しく折畳まれた紙を開いた。

『マリー君へ
ジャン君が一番欲しい物は、君の明るい笑顔だと思う。
君こそが何よりもジャン君への贈り物だよ。
泣くのは私の前だけにしなさい』

「これは」
考える必要は無い。十中八九間違い無く、ネモのメッセージ。
こんな言葉を、あの人が???????
ナディアの脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされていく。

「せんちょーさーん♪」
朝のまだ覚醒しきらぬネモの耳にマリーの威勢の良い声が響いた。ブリッジ内のクルー達も一気に振り返る。
「マリー!ここは入っちゃいけませんと、何度も……」
「せんちょーさん!これ、あげる!」
エレクトラのお叱りを全く無視して、マリーは船長の前でぴょんぴょんと跳ねた。
「……何だね?」
覗き込んだネモの目に飛び込んできたのは、小さな人形。
「マリーだよ!」
それは分かる。ネモは頷いた。周りのクルーも覗き込んだ。彼らの目に映っているのは、可愛いマリー人形を差し出されて硬直したネモである。
「後ね、せんちょーさんとね、ナディアとね、エレクトラさんとね、グランディスさんとね、イコリーナさんもあげる!」
「マリー、どうしてみんな女の子なのかしら?」
つい副長が訊く。誰もが抱いているであろう疑問である。艦橋内はマリーの答えに注目していた。
「男の人は、女の人の人形を貰った方が喜ぶって」
目を点にしたクルーがマリーを見つめた。一息置いてエーコーが言葉を紡ぎ出した。
「だ、誰がそんな事言ったんだ?」
「サンソン!」
やっぱり。
一同が溜め息を漏らした。ネモは返答に困っていた。どうすべきなのか。影で隠れた翠を帯びた碧眼は明らかに狼狽の色を映していた。
「でも、どうして私にこれをくれるのかね?」
「え、だって父の日だから!」
「……父の日!?」
クルーの野太い声が響き渡った。一斉に船長へと視線が集中する。
父の日にプレゼントを貰うのは父親。と言う事は、お父さん=ネモ船長?
「ジャン君がお父さんじゃなかったのかね?」
「そうだよ。でもね、せんちょーさんもね、パパなの」
ネモ船長とパパ。合うような、合わないようなイメージだ。エレクトラは眉を顰めてネモを見つめていた。機関長も複雑な表情をしていた。
「だからね、あげる!」
受け取って良いのだろうか。それが許されているだろうか。無意識にエレクトラを見る。彼女の表情は許していない。

そうだ。
自分が父である事は許されない。13年前の罪が私を償うためには──。
目下の純粋な眼差しが痛過ぎる。
「船長、貰ってあげたらどうじゃ?」
機関長には分かっていた。ネモの苦悶が。マリーの無垢な瞳とエレクトラの陰鬱な瞳の間で溺れかけているネモの姿が見えた。しかし、機関長はネモにマリーの瞳を裏切って欲しくなかった。
「……そうだな、でも、ジャン君は良いのかい?」
「うん、ジャンにはもうあげたの」
「同じ物をかい?」
「ううん、ジャンにはマリーとナディアだけよ」
周囲がえっ、となった。
「じゃあ、どうして船長には……」
「だって、せんちょーにマリーの人形あげるのって言ったら、グランディスさんが自分のも作ってって」
船長に熱を上げているグランディスらしい言葉だ。水準操作員が呆れたように青みを帯びた長髪をかきあげた。
「でもね、それじゃあ、不公平でしょ」
「何がかしら?」
エレクトラの顔がかすかに引きつった。
たかが四歳、されど四歳。マリーは時折物凄い事を言う。エレクトラの雰囲気が思わず険しくなる。
「エレクトラさんだって、そう思うでしょ?でね、マリー、考えたの」
「……何を」
「みんな作ってあげることにしたのよ。せんちょーさん、みんなのこと好きでしょ?」
好き?
ネモは心の中でその言葉を反芻した。
「……そうだな」
マリーに言葉を返しながら、ネモはグッともう一つの言葉を押し込んだ。
嘘だ。私の中にそんな事を感じる心はもう無い。十三年前にあの業火焼き尽くされ、あの洪水に押し流された。
「俺、一個で良いから、イコリーナさん……欲しいなぁ」
ぼそりとエーコーが呟いた。
恐らくギャグ。分かってしまった操舵長は笑うべきか戸惑い、副長は測的長をキッと睨み付けた。
「マリー君」
ネモは不意にマリーを呼んだ。
「測的長さんはどうしてもイコリーナ君が欲しいそうだから、譲っても良いかな?」
それ以上は怖いから、貰っておこう。

結局、ネモの部屋の机の上で今日もマリー、ナディア、グランディス、そしてエレクトラがネモを囲んで微笑んでいる。